MENU

ダラムサラに住むチベットの人々

ダラムサラから見える雪山

ダラムサラ。インドの中のチベット。不思議な街。

インドに疲れた旅人を癒す街、ダラムサラ

ダラムサラの街並み

インドの北、ヒマラヤのふもとの街ダラムサラ。ダライラマ14世が中国共産党から逃げ、亡命政府を立ち上げた場所。チベットの文化を残そうとしている人たちが住んでいる。親交が深いということもあると思うが、異国の民を受け入れ場所を与えたインド政府も懐が深い。ただ、市民権や国籍の問題はいずれも解決されていないとのことだけど。

ダラムサラ。チベットの色彩に溢れている。赤と金。派手なのに、インドのような脂っこさというか、胸焼けする感じがないのが不思議。エキゾチックな中にどことなく懐かしさを感じる。お寺が嫌いな私だけど、チベットのお寺にはずっと居たくなる心地よさがある。

チベット、パドマサンバヴァの仏像

神様というか、仏像というのか。仏像のお顔が美しい。とにかく美形だ。チベットの人たち、飾り気はなくても顔が整った人が多いからか。タイなど上座部仏教の仏像と、日本の大乗仏教の仏像と、顔つきが全然違うからすぐにわかる。(写真は厳密にはラダックというさらに北の地域のお寺の仏像。ダラムサラでは一枚も仏像の写真を撮っていなかった。パドマサンバヴァというチベットに密教をもたらした人で、グル・リンポチェとも呼ばれる。)

慣れない土地でも文化を紡いで強く生きていくチベット人

ダラムサラという土地

実際にチベットから避難してきた人たちが減り、2世、3世が中心となっている。チベットを知らない世代だ。それでも自分たちのアイデンティティは「チベット人」だ。実際にはインドの若者的な部分も含まれており、インド社会に溶け込んでいるようにも見える。

元々ダラムサラは山だった。そこを切り開いて、急斜面に家を建て、街を作った。歩くだけでも大変な坂だらけの道、ここを切り拓いた人たちの力強さには頭が下がる。

チベットの人たちは、怒りや悲しみを抱えもって、でもそれらを口にすることなく、敬虔に祈る。こんな試練を与えた神を恨むことなく、ただひたすらに祈る。その姿があまりにも尊く、その人たちを通じて神様の存在を感じる。

神様はいるのか?なぜこんな試練を与えるのか?

チベットの人たちは謙虚だ。チベットという人里離れた山奥で、自分たちの価値観と経済圏の中で平和に暮らしていた。その平和は、私たちが生まれる遥か昔に中国共産党の「侵攻」によって壊された。寺院は破壊され、僧侶は殺され、ダライラマは土地を追われた。

ダラムサラのお寺には、チベット侵攻の事実を世界に訴えるために焼身自殺をした人たちの写真が飾られている。人が燃えるその姿まで。この平和を愛する民族に、なぜ神様はこんな試練を?と思う。信仰に意味はあるのか?と。

神様は信仰しても助けてくれないのか。わからない。神様がいるなら、敬虔に祈るこの人たちをなぜこんな目に遭わせるのか?

でも、チベット仏教という信仰があるからこそ、チベット人は世界で散り散りになった今でも繋がっている。いつかまたチベットの地を踏むのだ、という強い結束を持っている。それには、チベット人のアイデンティティとなっている信仰の力が欠かせない。

ただ、チベットはいつ独立できるのだろう?中国がチベットに主権を返すとは到底思えない。西側諸国からの圧力が必要だろうけど、圧力をかけ続ける様子は見られない。何ができるのか、自分に。人を動かさないといけない。そう思いながらも、何もできない自分がいる。