私はスピリチュアル的なことも好きっちゃ好きだけど、それを心から信じることはできない。不思議な力があったらいいけど、でも自分で感じることはできないしその存在も半身半疑。神様もいないわけではないかもしれないけど、いると確信できるわけでもない。
それよりも、先人たちが無数の実験を重ねて再現性を追求し、確実な成果を残してきた科学の方がよっぽど信じられる。神様の救いを待つよりも、科学の発展を待つ方が早いかもしれないと思うくらい、むしろ私は科学を信仰している。科学で、医学で病気や怪我をした野良犬たちを幾度となく救ってもらってきた。(この話は別の機会に)科学こそが信じるべき対象だし、自分の死後は臓器提供もするし、さらなる科学の発展のためなら解剖などに利用してもらってもかまわない。そしてその後は、チベットの鳥葬みたいに、獣に自分の肉を与えてやってくれとも思う。それくらい、なんというか、「死んだら終わり」と思っているから、せめて肉食で他の動物の命を奪ってきた分を自分の体で返せたらいいし、科学に役立てられることがあるなら遠慮なく使ってもらいたい、という感じである。
そんな私が出会った、ユタの女性。
出会いたくでも出会える存在ではない
今では、沖縄にいなくてもユタ、霊能者、霊媒師など人智を超えた力を持つ人たちを見る機会に恵まれている。怖いもの見たさで都市伝説系YouTubeを一時期見漁っていた自分も、ユタやノロといった存在は知っていた。でも、自分が出会うことはないと思っていた。YouTubeで見ても、やっぱりどこか信じきれない自分がいて、信じられるかどうかもわからないことに対して時間と資金を投じる気になれないからだった。
そう思っていたものの、ご縁をいただき。「今のこの自分の状況をどうにか聞いてもらいたい」と救いを求める思いより、「何が見えているのか、何を言ってくれるのか、とにかく話を聞いてみたい」という好奇心が抑えられなかった。
そして、その方の名前をインターネットで調べてみた。一切出てこなかった。このご時世にめずらしく、紹介サイトさえ見つからなかった。(ネット探偵の別名がつくほど、検索のしつこさには定評がある私)
ああ、この方は出会いたくても出会える存在ではないのだ。お互いのタイミングが合い、ちょうどご縁があれば、お会いできるような、まさに神様みたいな存在なのかもしれない。そう思ってしまった。
この人は本物な気がする、と。マーケティングを本業としている私が言うのも何だが、マーケティングをしていないという事実によって信憑性が増す。めずらしい例である。
若くて明るくてはつらつとした女性
お名前をお伺いし、ユタの元々のイメージもあって、白髪まじりの髪で腰が曲がり、静かにおだやかに上品に話す、60〜70歳の婆様ではないのかと想像していた。ところが、自分より少し年上くらいの、想像よりずっと若くて、明るくてはつらつとしたお姉様でびっくりした。話しやすくてとても安心した。
が、ここで度肝を抜かれる。神様がその方にのりうつるからだ。急に下を向いたかと思うと口調も目つきもかわり、ご自身が私たちで言うところの神様だとおっしゃった。そしてまた急に元のはつらつとした女性に戻り、「自分は神様が言っていること、見せてくるものを伝えるだけ」だと言った。
正直、この時点で何を思えばいいのかわからなかった。本当に神様がついたのかどうかも自分には判断ができなかったし、だからといってパフォーマンスでそんなことをするとも思えなかった。
この人、見えてるわ
そして始まる。セッション?カウンセリング?正しい言葉がわからないが、私の過去を遡って見てくれた。そこで出てくるキーワードが、全部自分にとってピンとくるものだった。あまりにもピンポイントすぎる。
ウェブサイト、って出てるよ。ウェブサイト立ち上げたら?あとブログ。
石を売るのがいい。石、あるのかな?アジアン雑貨と一緒に売るといい。
ボランティアって出てる。
猫たちが出てくるね。写真をもっと世に出してほしい、発信してほしい、って。
そして、極めつけ。「あらーーーーお母さん、気強い人ね!」
この言葉は、見えてないと言えない!!!!!!この言葉で確信した。この人、本当に見えている。神様ついている、と。お母さんと聞くと、大体「優しい方ね」って言っといたら当たると思う。それを、私の母の本質をついた言葉で表すとは。
でも他にも正直、見えてないと言えないようなことがたくさんあった。たとえば、旦那の家系に4代前に養子が入っていることなどを言い当てた。後日家系図を取り寄せてその通りだと判明したが、(4代前だけでなく5代前にも入っていて、その人が旦那の直系のご先祖様だった)その事実を義父母はもちろんのこと、おじいちゃんさえも知らなかった。
自分は自然に呼ばれて八重山に来た。猫をはじめとする動物や自然、旦那の活動について発信することが役割であること。自分が上がらないことには、旦那も上がっていかないと。
そして言ってくれた、「インドには帰れます」という言葉。猫も日本に連れてくる必要はないとのこと。でも、私が最初に保護したルナが寂しがっているとのこと。(ルナを世話してくれている友人に言うと『ルナはもう自分の城みたいに振る舞ってる、問題はスノー!先住猫と折り合いがつかなくてちぢこまってる、スノーこそ帰り待ってるよ』と言っていた…。)ルナに、にぼしとミルクのおやつ(多分銀のスプーンのクリーミーなやつのこと?)を買って帰るべし、と。
とにかく、発信を続けていればインド帰りへの道が見えるらしい。不定期に、できる時だけ、つぶやくようなライトな感じでやってみるか…という次第だ。
神様とは?
がっつり神様に触れることになったのがインドっていうのもあり、イスラム教とかキリスト教とかも学ぶ機会が多くて、神様ってなんとなく創造主のイメージがあった。自身が会ったユタの方がおっしゃる「神様」は、おそらく創造主ではない。精霊みたいなイメージの方が自分にとっては近い気がした。ここが腑に落ちたのは自分にとって意義のあることだった。自然に宿り、その土地を見守る。あくまで見守るのであって、実際に「守る」って行為をするのは人間っだとも感じた。
「神様は見守ってくれるけど、守らない」という言葉が印象的だった。
沖縄や奄美の悲惨な歴史やチベットやウイグルの惨状を見ると、「なぜ、こんな純粋に神様を信じる人たちを、神様は守ってくれないのか?」と心が痛くなることが多々あった。特にインドはチベット仏教と距離が近いために、チベットの人たちの理不尽な歴史に憤りを隠せなかった。ダライ・ラマ14世に謁見できる機会があれば、その答えを持っていないことはわかっているのに、その疑問を人一倍抱えているだろうに、それでもこの問いを投げかけたいと思ってしまった。
でも、ユタの方と話してその答えがなんとなくわかったというか。人々を侵略行為から守ることは神様はしない(あるいはできない?)けど、その人たちのことを見守り続ける。それも、人間の寿命って単位ではなく、もっと長い歴史の中で。今は辛くても、ちゃんと神様はその子供の子供のその先の代まで見ててくれて、もしかしたらそこで変化のタイミングがくるかもしれなくて。チベットも、もしかすると数世代後には独立を取り戻しているかもしれない。その気持ちを次世代につなぐためにも、この人たちの清い信仰と神様が必要なんだと、そう思う。
うまく言えない、文字にすると全然上手く言えないけど、自分の中で少し腑に落ちた気がした。